STORY

『自分物語』

 

自分を苦しめていたのは自分。

私は「自分の思考」に苦しめられていたのだと

生まれて40年経ってはじめて気づきました。

そしてその苦しみの中にいる人は決して私だけではない、

という事にも気づきました。

辛い最中にいる人に。

どのような環境にいても前向きに生きたいを願う人に向けて贈ります。

 

 

1.幼少期

ちっちゃな頃はとてもお転婆な女の子だったようで

木も平気で登っちゃう。

ジャングルジムもどんどん上まで登っちゃう。一度、てっぺんから落ちておでこを3針も縫ったことも。それでも大好き。

虫も大好き、動物も好き、ジッとしていられなかった。

ちっちゃなおてんばさんにとっては、幼稚園はきっと窮屈だったろう。

先生からは「手いたずらが激しい子」というレッテルを貼られていたようだ。

しかしこの「手いたずらの激しい子」という言葉は、学生時代に才女と呼ばれ、かつ保育士でもあった母親のプライドを大いに傷つけたようだった。

 

2.小学校期

小さい頃のお転婆ぶりはどこへやら、静かにいることを矯正された私は、いつ頃からか自分の気持ちを口にすることがなくなっていった。

小1の時、両隣の男の子たちから太ももを爪でツネラレルという嫌がらせを受けるようになった。彼らは私にお金を持ってこいという。
お金を持ってこないとツネルゾと脅されたのか、親に言うとツネルゾと言われたのか、どっちだったかは思い出せないが、母親のお財布から小銭を持ち出すという日々が続いた。
初めは10円だったのが、50円100円とエスカレートしていく。

当時の私は、母親のお財布からそっとお金を取り出す罪悪感よりも、つねってくる男の子達の方が怖かった。その顔は今でも脳裏に焼き付いて離れない。

流石にお金の減りに気付いた母親、娘を問いただしたことによって初めていじめられていた事が明るみになったが、当時は加害者の「ごめんなさい」という一言だけで、「解決」という枠に収められた。

 

小4。若干10歳で「教育」という名のいじめに合う。
高齢の女性の担任と馬が合わず、自分の意見をはっきり言えなかった覚えがある。何故か忘れ物や遅刻が多く、学校というものに焦点が行っていなかっただろう自分に対し、担任としての熱意からいつしか強い攻撃の対象となり、毎朝下痢と発熱、という症状が出るようになる。今で言う登校拒否か。

友達たちが私が先生に虐められていると母を呼びに来たことがあったというが、ここでの記憶は飛んでいるところがある。

 

その一方で私自身は、積極的な人や、明るく人気者の人に対し、強い憧れと共にじっと観察していた為か、観察力が磨かれていった。特に、物事をきちんと済ます優等生タイプだった母親からも、時に強いせっかんを受ける経験から、人の怒りやイライラなど感情の出る直前の空気のうねりというか、微細な状況の変化を感じてしまう敏感体質になる。

 

小5,6年の肝っ玉母さんのような担任に救われる。

自分から意見は言えずとも、ただ正義感は人一倍強く、力のあるものが弱い者をいじめるなど、自分を重ねていたのか分からないが、いじめの対象者を見過ごせず助けることはよくあった。その後自分も仲間外れの対象にもなるのだが。勉強の成績は良いとは言えず、唯一ピアノが得意なところと、空想したり、空を見上げたり、昆虫に興味を持ったりと、自分の感性の世界に入ちがちな自分に対し、それを大切にすべきだと詩を書くことを勧められ、詩集を作る。

卒業時に担任から頂いた「あなたは大器晩成型だから大丈夫!」の言葉は目が覚めるほど衝撃的で、なんだか良く分からなかったが涙が溢れて仕方なかったことは、今でも忘れられない。

 

1年生から始めたピアノは弟がバイオリンを習っていたことから「伴奏」という、“人に合わせる”という機会を多く持つ。4年生の時には高名なピアニストの地元開催の公開レッスンを受ける機会に恵まれたが、極度のあがり症で練習の成果の半分も出せずNG。
ピアノの発表会も本番に弱く、本番になると脈は大きく波打ち、冷や汗が出て手は冷たく氷のよう。指は震えてしまいまともに和音が掴めない。親からは練習不足のせいだと言われ、夕方に友達と遊ぶことを禁じられ、「100回練習」を強いられもした。
その一方で、英会話教室や水泳教室、体操教室にも通うなど、体を動かすことと、初対面の人が外国人であっても人見知りは無かった。

 

3.不真面目な中学時代

学校の勉強は泣かず飛ばず、音楽と美術と体育だけが得意。

不良まではいかないが、その手前でリップクリームやスカートの長さ、カバンの薄さでよく怒られた。何のための校則か分からず上からの圧力によく反発した。

だがある時、身なりの悪さで気色悪い1年次の担任のせいで大嫌いだった数学が、中2夏休みの父親からの小1ドリルの特訓成果もあってか、ふと音楽の構成や、バッハ等の論理的な音楽の構造と似ていることに気づき、赤点から大逆転、数学だけ440人中10番以内に入る。(一瞬だけ)
部活は吹奏楽部で、割と強豪校で有名であり、市・県・東海大会まで進む熱心な顧問の指揮する部活だった。ここで耳を澄まし、人と呼吸を合わせ、全体で合わせるハーモニーやアンサンブルの心地よさを堪能した。しかしここでも、音楽が出来るからソロパートをやってみないか、の打診あっても、本番で任されることはなかった。

ピアノでは中3で県内の学生音楽コンクールを受けるが、本番に弱く予選落ち。しかし、伴奏は好きで学校の合唱だけでなく、弟の入っているViolin教室でも声を掛けられることも多かった、人のサポート役になれている処が心地良かったのだと思う。

 

 

4.部活三昧の高校時代

県大会に出場するような音楽部があるからと志望した高校だったが、入ってみると「音楽部」はナント「合唱部」。歌だけは・・・苦手だったのに対し、当初ひたすら後悔したが、朝練、昼練、夕錬と外周走りや腹筋背筋50回など、運動部並みの準備運動もあったが、大勢で一つのことを成し遂げる喜びからか、怠けることなくどっぷりと部活三昧となる。ここでは3年間連続全国大会出場を経験し、3年時には伴奏と副部長を兼務し(部員100名超)、仲間と一丸となって心を合わせることや、真の純正ハーモニーの醍醐味を知る。

ピアノは音大を目指すべく、毎月東京の教授のホームレッスンに通うも(部活を辞めるように何度も言われ続けてきたが言うこと利かず)、夏の音大講習会では、自分を高めることに集中している、積極的で意識の高い人たちに圧倒される。

 

高3時の進路決めで、ここまで目指してきたものを母親からいきなり覆される。

「あなたの性格では、たとえ合格しても負け腰でダメになり、学校に付いていけなくなるだろう。折角親が(学費を)頑張ったとしても、きっと夜の繁華街でうろついているのが目に見える。」と地元の短大(音楽科)に推薦で行けという・・・その強い押しに反発こそしたものの、結局は自分自身もそのイメージが連想してしまい、同意することとなる・・・。

 

 

5.自我意識がやっと目覚める短大時代

音大こそ行けなかったが、音楽専科に入ってことが嬉しく、これまで音楽以外は、勉強に無関心だったはずが、何故か楽しく、授業はすべて一番前で聞くようになる。すると教授からも顔を覚えられ、成績も肝心のピアノよりも学業のほうが高くなるなど逆転現象が起きた。(ピアノは良。他の教科は秀か優)

ソロのピアノは相変わらず本番に弱かったが、他の声楽・器楽の学生から伴奏依頼が殺到するようになる。卒業演奏会(各楽器別5番までの優秀者しか出られない)を目指したいと担当講師に伝えるも、半ば呆れたように「あなた、それが全てではないわよ」という言葉に射程距離範囲外と診断されたことに大きなショックを覚えるも、奮闘しギリギリ卒業演奏会に出演を果たす!

 

この事は自分で自分の目標に対し、諦めずに向かう姿勢と成果が結んだ初めてのことだった。

 

短大はその上の学びとして“専攻科”というものがある。有名音大への編入も勧められたが、親からの反対も加わりお断わりし、そのまま専攻科へ進学する。
専攻科に入り、そこで初めて人に教わらずに自分で学び取るという経験を持つ。

 

評論家のようなレッスンしか提供してくれない担当教師に違和感を覚え、先生を変えてほしいと学部長に申し出たり(結局はNG)、1年間しかない学生期間中であるにも関わらず4カ月間休学し、地元の中学校の非常勤講師の職に就いたりと前代未聞の学生と呼ばれた。

かつては消極的という代名詞のつく自分はいなかった。
この最終学年である修了演奏会への出場は学びの集大成。成績優秀者はトリで出演するなどプログラムの終わりから成績順であり、(専攻科の在学生は、短大とはいえ、県外からの優秀な人も多く、せめて3番までに入れたら・・・と願ってはいた)その選抜の修了試験も願ったとおりの3番になる、という自分にとって奇跡ともいうべき2度目の事が起きた。

短大専攻科修了後の就職先を決めずにいたが、在学生から一学年で在るか無いかの非常勤講師の席に、何となく残れたらいいな・・・と根拠もなく(3番だし)思っていたところ、白羽の矢が当たり、保育科の非常勤講師として残ることが出来たことも無意識の成す快挙だったかもしれない!!

 

 

6.波乱の30

1)人生の開拓へ挑戦

①大玉砕

短大の専攻科の際の中学校非常勤で務めたところから、そこで知り合った教員と結婚し、婚家の兼業農家の家に嫁いだ。順調に子どもにも恵まれ、自身の音楽教室も立ち上げ、演奏会の依頼も多く、順風満帆・・・。

向上心から卒業後もレッスンには通っていたこともあるが、個人のソロ演奏よりも伴奏をよく頼まれはしたが、演奏家としての挑戦として、ソロのコンクールに挑む31歳。

 

幼少期から言われ続けてきた、「練習が足りない」「あなたには無理」「努力が足りない」自分への挑戦として、「金輪際言われないように」「死ぬほど練習してやる」「絶対に上がらないように、絶対に間違えないように、絶対に失敗しないように」と念じながらの気が狂ったようにピアノにひたすら向かう、自分との一生に一度の挑戦。一日10時間弾く事もしばしば⇒【努力は叶うものに違いないから。】

が!!!!!

しかし、コンクール当日、あれほど練習した自分だったが、現実は間違える筈もない出だしでいきなり大失敗の大玉砕。

かなり落ち込んだ・・・。やはり元々自分には初めからピアノなんて向いてなかった云々と。

 

②人生が開けた瞬間と奈落の底

その後、ソリストではなく、伴奏者として磨きをかけたいと願っていた自分に(33歳)、日本の音大には無い、アカンパニー(伴奏科)部門というものがアメリカの音大にあることを知る。そのアメリカの音大が夏の一か月間特別優秀な半プロに対し、公開セミナーを行っていることを知り、自分はやはりプロの伴奏者としてのプロ意識も持ちながら、その公開レッスンを聴講する。
その場で起きている素晴らしい学びを聴講し、翌年もすかさず日程を押さえ聴講。しかしふと、このまま一般聴講生で終わっていいのか?と自分に問う。

 

高学歴の方が受講しているその場への挑戦はかなり迷ったが、農家に嫁いだ身として高齢の義父母がいつ何どき病気になるやもしれない、ここで諦めたら一生後悔する、と一発奮起。しかしこの受講の為のオーディションは全楽器の本番の演奏を収めたテープの提出となるため、自分だけの問題では済まない。しかもやり直しも利かない。丸1年かかって、友人や知り合いの方に協力してもらいながら本番に挑んだ。

練習中はソロのコンクールの時とは違い、あの公開セミナーのホールで演奏している自分をイメージしつつほくそ笑んだり、自分の音は天才か?と思うほど楽しみつつ練習に励んでいた💛。

(この時はそれが引き寄せるとも知らずに・・・)そして200名近い全国の、有名音大の学生もヨーロッパ帰りのプロも混ざっての応募枠、うち6名に選抜されることになる。

 

4月1日にまさかの結果を手にしたときの喜び様はもう半端ではかなった!思ったことが現実になる歓びに浸った。一生に一度かもしれない奇跡に、夏の一か月間、何としても頑張ろう!と思った矢先、同居の義父が亡くなる。

4月7日に予定していた音楽教室の発表会は初七日と重なり(仲間に助けられながら実施はしたが、親戚や隣保班からは相当ヒンシュクをかっていたよう)、そしてまた、私の人生を掛けるセミナーが新盆に当たるという!?悲劇。

そう、農家の長男の嫁が新盆に居ないなんてあり得ない・・・💦

でも、そう。でも!!と恐る恐る夫に聞くと「いいんじゃない」とそっけない二つ返事。え!?良いの?やったぁ💗と勝手に解釈し、(←これが後に彼をDVに向かわせるきっかけとなる)

有頂天の私は本家の主が亡くなったことの意味も考えもせず、物凄い量の課題に没頭する・・・ここから私は自分のことにしか意識が行かなくなる。

 

元々無口な夫だったがそこから様子が口を利かないという形になり7月は完全無視。

 

自分自身を良い状態で8月を迎えたかった私は子供と実家に戻る。

8月のセミナーもお盆のことは流石に頭にあったので、他の猛者の中、嫁として夜は絶対に婚家に顔を出さねばと夕刻には新幹線に乗り、早朝朝一でまた戻るという日々を過ごす。

そんな夢のような濃い学びの1ヵ月も終わり、9月から子供も新学期だからと気持ちも入れ替え、これまでの自分勝手さにも反省し、心を入れ替えて嫁として頑張ろう!と戻ったその日から・・・いきなりDVが始まった・・・私は自責から当初誰にも言えず、しかしある日夜を拒んだために手を挙げられた際に、これはこの状況を誰かに伝えなければと、顔が腫れてしまった旨を同居の義母に助けを求めたが・・・これがまた間違いだった・・・「息子はそんなことをする子ではない。息子をそんな風にしたお前が悪い。お前は頭がおかしい。精神病院に行け」と。その日から義母と夫のダブルの心身DVが始まっていった・・・。

夏の終わりに自身のふるまいを反省し、心配する実家の両親には頑張るから大丈夫、と言って家を出てきたこともあり、その実家には、お財布も取り上げられた事も言えず友達にも言えず・・・しかし子どもには悟られないようにと、精神も身体も劣悪な日々が始まったのでした・・・オーディションに受かった同じ年でした。

 

別居のきっかけとなったのは、何をされても人形のように感じなくなっていた私でしたが、自身が風邪をひき、そして子供も風邪をひくという日に、病院にかかるお金を土下座して貰えた僅かなお金で、病院では自分は診察せずに掛からなかったことで支払えたが、自宅に着いてから、子どもの「プリン食べたい。」という要求に、決して近くではないCOOPまで出向く。ゼリーも買ってあげたい・・とカゴを見ながらお金が足りるのか、足りないのかをいう不安でレジに並んだところまでの記憶はあるが、その後意識を失って救急車で運ばれた。病院では鬱状態でもあったため、退院後は婚家に戻らず、そのまま実家へ。大切な子どもとは離れ離れになってしまう。

 

③静養そして前へ

子どもと離れ離れ・・・しかし仕事場は婚家。

でも次に戻ったら今度は命は無いかもしれない・・・の恐怖、しかし子どもに嫌な思いはさせたくない。私が婚家の近くに住めば収入源であるピアノのレッスンも可能、子どもも転校しなくて済む、と別居に踏み込む。

別居生活を維持するには。レッスン生徒は夕方から夜。ならばと早朝のゴルフの受付を始める。午後には公民館で高齢者教室も担当する。隙間時間は家事!そんな生活を続けていくうちに、生徒はどんどん年齢が上がる⇒終了時間が遅くなる⇒ふと子どもに対し「宿題やりなさい」「早く食べなさい」「早く寝なさい」しか言っていない自分に気づく。・・・・これでは子供がダメになる!!!と猛省し転職を考え始める・・・

 

④決意

ピアノを天職と思っていた私だが・・・ピアノの仕事をやめようと一大決心をする・・・昼間の仕事にしよう、別居は子供には罪はない・・・と青天の霹靂。

地元で一番生徒が集まっていた自負もあったが、子どもたちはすべて心ある先生方にお願いし、手放すことを決心した。

 

⑤ヘルパー。新たなる扉が開く。も・・・

では一体私に何ができるかと問うと、「人のサポート」しか浮かばない。伴奏の経験から自分に出来ることは、困っている人、何かを目指している人の笑顔に添えることに迷いはなかった。ならばヘルパーの資格をと、取得の最中で、僅かながら手放せなかった大人の生徒さんから、何気に訪問介護と配食サービスの会社を新たに立ち上げる話を小耳に挟む。そこで人の指導やサポートが上手いからと関わってほしいということになり、あれよあれよと会社設立に関わることとなる。

 

元来人が好きなのと、伴奏者としての資質として同調が得意ということもあり、

人と関わることも嬉しく、営業も楽しく、契約も楽しく、当初の経理担当の事務方から統括マネージャーになっていく。訪問介護事業と配食サービス事業の二つを管理するためには、介護保険を知らないと💦経営を知らないと💦経理もやらないと💦とこの辺りから。経験や能力のない自分への不安が頭をもたげ始め、勉強不足の自分は、統括としてせめて皆のサポートに回らなくては、と自身の休みの許可も禁じた。自尊心と自虐心がいつも混在しており、おまけに世間体からの反逆心から「私に能力がない、と決めつけている人達を見返したい」という怒りが根底に潜んでいた。それが自分に常に負荷をかけていることに全く気が付かなかった。

 

面接担当もクレーム係も楽しかったし、やりがいを感じていた(筈だった)。

確かに真夜中の転送電話対応と出動、勤務体制に関しては、会社の体制を問題視すべきだったが、自分を拾って貰った恩が全て自責に向かわせており、食事もとらず、休みも出動し、重症になるまで気が付かず、ある対応難しい案件から突然、無能さと無力さに直面し、急転直下、打ちひしがれ落ちていった・・。

 

⑥暗闇から光、そして大いなる気づきへ

会社時代に出会った「コーチング」は、自分がピアノ教室でしていたことの発見を娘から気付かせてもらい、向上心に火が付く。仕事勤務中に「コーチングセッション」を受けるなど会社でも優遇して貰えていたが、自身の極度の気落ち状態=鬱の最中では、これまで尊敬し、会社スタッフも意欲向上に向けてサポートして頂いたコーチの言葉が一切入って来ないことに気づく。

まるで知らない言語を聞いているかのようだった。

コーチング契約を打ち切り、扉を閉めきり、食事もせず。子どもにも心配かけている、子どもに何もしてあげる気力もない。無能な母。実力もないのに役職に就いたこと、全て自分自身の身勝手さが振りまいたこと・・・全て私が悪い。諸悪の根源は私だった・・・。いっそ居なくなればいい・・・と出口のない深い闇と絶望の淵に入ってしまった。

 

診療内科とカウンセリングは全く機能しない。

ただ私が恵まれていたのは、処方された薬に違和感を覚えたことだった。

・・・何故か直感的にこれは人間じゃなくなる・・・と。

 

起き上がれるようになり、自分に一体何が起きているのか、とネット徘徊をする。と心理学と脳科学、言語学を統合した【NLP】という学問に行き当たった。

そこでの内容に衝撃を受けた。これまで勉強したカウンセリングとは全然違うものだった。

五感?
脳の癖?
セルフイメージ??

 

自分が生まれつきの駄作ではなく、ある一定の環境によってそのように思い込んでしまう事が原因で、それは人間の特質でもあるということ。幼児期に思い込んだ自分自身というセルフイメージは、その後その思い込みの正しさを立証するように生きて行ってしまう、というものだった。氷山が解けていくかのようにじわりじわりと自分に起こった出来事の正体が掴めてきた。

 

そんな中での体感覚的に腑に落ちた事は、ずっと引き籠って窓を開けることすらしていなかった私が、学校の必要物を買いに行って欲しいと悲痛にせがまれ渋々出た帰り、ふと見上げた夜空の抜けるような美しさ、目の前に広がる青々とした田んぼの稲と頬を掠めるそよぐ風…こんな状態であっても、目の前にはどこまでも続く星空の美しさと宇宙の豊かさと天からの溢れんばかりの恩恵に、体の芯から震えるような何かが沸き上がり、自分には無いと思い込んでいた【それはある】ことに気づけた瞬間だった。

 

そして、自身のこの気付きは周りへと広がってゆく。戦争もない豊かな国で、毎年30,000人もの人が自死する国があって良いはずがない。自分を無価値に感じ、生きている意味がないと思う思考の背景は、「基準」というものかもしれない。一定のラインに居なければ価値がないと思わせること!!そうでなければダメだと思わされている事。一定の基準、一般的な価値、それら該当外と思ってしまう事が原因か。そしてその被害者は子供だけでなくそのまた親もそうかもしれない。

社会現象

これはもはや私だけの問題ではないという重大なことに気づいた。

 

伝えなければ!

どうやって?
鬱の人に?
いやいや、そうなる前に。

もっと多くの人を救うにはどんな方法があるのか。
大人か?

子どもか?

世の中のゆがみを
子どもを育てている大人に伝えなければ。

 

きちんと足並みそろえること、平均的な人間を作るには戦後の日本はそれで良かった。皆同じ働き方や大企業に入ること、仕事があり、TVがあって家があって車がある・・・平均的に何でもやる人を作る時代には良かったかもしれない。

 

その時代の「常識や正しき事」は、自分という個性を肯定できない子どもたちが量産されてしまう。

とはいえ、大人、特にお母さん自身は子どものために「良かれ」と思っての躾や言葉かけ。それを「正しい」と思いこんでいる事に気付いて貰わねばなりません。

そして子供たちへ「ありのままのあなたでいることが素晴らしい」という直接サポートを。その両方のサポートをするには・・?

 

私にはピアノがある!
いえ、既に20年前から、子どもの自分を物事を素直に感じる感性、自分を信じる力、そして野外教室で社会性も育んできました。

改めて新しい🎹教室として子どもたちと関わりを持ちながら、お母さんたちのサポートをしよう。自分を肯定できる子育て法を伝えよう!
と従来のピアノ教室とは違う、親子ともども面倒を見るピアノ教室を作ろうと思いました。

 

7.現在へ  

出来ないを出来るに変えるじょいふるピアノハウス。

家庭に愛を取り戻すコミュニケーション専科の音楽教室です。

色んな親子のサポートをしてきました。

 

そして10年。

自分らしい感性で自信をもって素直に表現できる子どもに

笑顔で自己表現できる子どもたちを育むことを目的としています。

 

これからは個性の時代。
これからは日本だけではやっていけず、日本と世界とを繋いでいかなければならない時代になってきています。しかし海外から見た日本人は自己主張に乏しい。ポテンシャルはあっても自信がない。

だからこそ、早期に英語力をつけるよりも、自分で考え、主張し、表現できるように、まず「自分らしさ」を認め育てる環境がなくてなりません。

 

その土台作りをお母さんたちと共に

溢れる笑顔を家庭から世界へ、と。

 

日本人の和と社会性を重んじる文化を持ち合わせた子どもたちが世界に羽ばたいていくことでしょう。

 

いまもし、ご自分のお子さんの「今」を不安に思えたり、失敗を恐れる傾向があるとしても、問題ありません。

私と一緒に子どもを応援し、共に成長できる体験をしていきましょう。

必ず良くなります。

今からでも遅くありません。

今の子の為にそして未来の子どもたちの為に私と一緒に嬉々として表現できる子どもを育てていきませんか。